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亜人

僕は亜人である。これを読む、漫画が詳しい方は最近流行っている漫画作品を連想するかもしれないが、実はアメリカ人であることをさしている。アメリカを漢字で書くと、「亜米利加」となるのは広く知られていることですが、勝手ながら亜米利加人を「亜人」に略した。本来の意味としては亜人が「本当の人間ではない」か「化け物」(あの漫画のように)であるらしい。言い換えると、人間に似ている生物ですが、違う特徴を持つ。

日本に滞在している外国人である僕はいつも自分が日本人でないことを思い出させられる。どんなに日本語力をレベルアップしても、どんなに熱心な親日家になっても、一緒に暮らしている日本人と違う。外国で長く滞在する方はその気持ちが分かるだろう。ある日、自分が違って珍しいことで得意になる。別の日、ただ誰かに仲間同士として受け入れて欲しい。僕は4年間この日本に滞在してきたので、だいぶ慣れてきた。というより、家族が一緒にいるから受け入れてくれる人はいつもそばにいる。どうせ私たち人間はみんなこの世に臨時的に滞在しているけれども、その間は仕方なく周りの人に認めてもらいたがる。あの化け物のように、僕は生物学的には日本人と非常に似ているが、何か文化か言葉か遺伝子などが違うので、あくまでも「亜日本人」である。

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愛情としつけ

このごろ、北海道に行ってきました。かなり回っていたが、旭山動物園が有名なので是非子供を連れて行きたかった。2歳半の長男が特に気に入ったのは、お猿さんだった。登ったり、ぶら下がったり、鳴いたりしている姿は見切れなかった。猿はあまりにも人間らしく、どこが似ているかどこが異なっているかを考えたくて仕方がない。

 

お猿さんはダーウィンのはるか前に人間と関係していることが考えらていた。しかし、ダーウィンがきちんとした観察に基づいた理論を考え出して、生物学を現在の道に導いたのが歴史的な物語とされている。ダーウィンの進化論が現在の生物学に深い影響を与えているというより、基礎となっているのを否定できない。それでもやはり反対があった。100年も離れている私たちは抗議していた人たちが無学な宗教に捕らわれていたとどうしても信じたがるが、これはあくまでも単純な戯画であることを認識すべきである。もちろん、簡単なカリキュラムを作るために歴史の複雑さを避けてこのように語ると有益であるかもしれないけれども、ダーウィンの「敵」の批判や声を偏見のない耳で聞くことも価値がある。少なくともあの人たちのミスから学ぶことがあるはずだ。僕が属している物理学分野の中でアインシュタイン量子力学コペンハーゲン解釈を反対していたのが有名である。理由は彼が信じていた世界観、つまり哲学であった。そして彼のミス(実験で分かった)でさえ量子力学には大変な影響を及ぼした。

 

その時代にダーウィンに反対していた理由の例を一つ挙げてみる。それは生物学が倫理学の分野に侵入することである。この問題は未だにも続いている。社会ダーウィン主義あるいは生物学的決定論の最悪、最低の例としてはStephen Jay Gouldの名作「The Mismeasure of Man」で反論した「scientific racism」(科学的人種差別)は私たちも注意すべきである。

 

最近、河合雅雄の「愛情としつけ」を読んだ。作者の言いたいことを簡単に要約すると、私たちは猿さんから子供教育に関して色々を学ぶことができる。子育ての模範とも言える。なぜ猿が模範であるかなぜ学ぶことがあるかを自分に問いかけながら読み続いたら「仲間だから」という理屈しかないらしい。河合さんの科学的な研究は高く評価されている(違う分野だから個人的に何も言えない)がこんな簡単な非論理的なミスに驚いた。「である」(is)から「すべき」(ought)へ移るのはそう簡単ではない(これはヒュームのギロチンと言われている)。

 

驚いたというよりイライラしたと言った方がいい。誰かが分からない分野に入ってしまって間違うことは当然だけど、科学は近代に非常に大事にされている領域だからその科学を行う科学者は一般的に信頼されているようである。だから科学者にはこのミスはすぐ許される。Gouldが戦っていた科学的人種差別は「科学」に基づいているふりをしたからこそ害を加えられた。

 

子育てに励んでいる僕にとって猿さんたちから学べるのが疑わしい。気づいた人もいるかもしれないが、「父親」という言葉はこのエッセイに載っていない。猿の父親は子育てに参加しないからであるらしい。じゃ、子育ては全てお母さんに任せばいいでしょうか?これが誤っているとはいうまでもない。それに猿さんたちは何のために教育しているのも大事である。結局、適者生存の「道徳」の方へ行ってしまいそうである。

 

旭山動物園の近くに三浦綾子さんの文学館にも訪れた。何年もベッドから上がれられない綾子さんの伝記を少しでも知って感激した。こんな風に障害を乗り越えて、美しく生きる人物は滅多にいない。これはいかにも人間らしい生き方である(理想だが)。このような生き方は猿と他の動物から学べないのである。というより、ありえない。猿の「である」よりも、この方が「すべき」だと言えるだろう。

パワースポットと相対主義

熊本地震が気になって、最新情報をチェックしている方は多いだろう。被害者や避難地、ボランティアなどのニュースが川のように流れていく中である記事が見つかった。

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上の記事によると熊本県にある人気パワースポット、免の石、には後戻りできない変更があった。この免の石というのは、崖に挟まれている、がひっそりと宙に浮いているよう岩である。パワースポットとして広く知られているこの奇岩は「災いを免れる」とか「決して落ちない」などの意味を持つ。それにあやかろうとして、受験生や恋を求める女性の来客が多かったという。しかし、この落ちそうでも落ちない奇岩が地震の刺激を受けてとうとう落下した。熊本地震による被害に加えるだけで、そのまま忘れるつもりだったらせっかちだ。次はこの記事を読んでください。

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「ホットした」村職員が落ちた奇岩を見つけた。粉々とならず、斜面にある木に引っかかって止まったことで、発見者がこう話した:「木に引っかかっていたので、受験や就職試験に『引っかかる』御利益もある。新たな『パワースポット』としてまた売り出したい」。ホットした村職員の発言にはっとした。

パワースポットはなんという柔軟性がある。落ちる前の来客の希望が完全に裏切られたにもかかわらず、石の「力」が単純に形を変えて、新しい御利益にパワーを注入した。しかし、いつこの気まぐれな石がまた移って、御利益の特徴を変えるか分からない。悩んでいる受験生は実に可哀想だ。

別に村職員の揚げ足を取るつもりではない。もしかすると、このような思考は日本的である。神道の本来である「神祇信仰」はパワースポットとあまり変わらない気がする。この間、司馬遼太郎井上ひさしの「国家・宗教・日本人」の対話を読んで、司馬さんがこう話した:「中近東をのぞく東洋人は世界を相対的にとらえるんですが、西洋人はキリスト教以来、絶対主義というものを持っています」と。だから、日本出身のパワースポットが絶対的な存在でなくて、御利益の形を変えても不思議ではないかも知れない。どうでしょうか。

初めまして

日本に滞在しているアメリカ人です。理系ですが、昔、文系の友達に司馬遼太郎の本「この国のかたち」を紹介してもらって、社会や歴史に関心を持たせた。特に宗教的なところがメーンとなります。これから日本語の練習と日本文化の独学のためにブログを書き出します。

 

よろしくお願いします。

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