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愛情としつけ

このごろ、北海道に行ってきました。かなり回っていたが、旭山動物園が有名なので是非子供を連れて行きたかった。2歳半の長男が特に気に入ったのは、お猿さんだった。登ったり、ぶら下がったり、鳴いたりしている姿は見切れなかった。猿はあまりにも人間らしく、どこが似ているかどこが異なっているかを考えたくて仕方がない。

 

お猿さんはダーウィンのはるか前に人間と関係していることが考えらていた。しかし、ダーウィンがきちんとした観察に基づいた理論を考え出して、生物学を現在の道に導いたのが歴史的な物語とされている。ダーウィンの進化論が現在の生物学に深い影響を与えているというより、基礎となっているのを否定できない。それでもやはり反対があった。100年も離れている私たちは抗議していた人たちが無学な宗教に捕らわれていたとどうしても信じたがるが、これはあくまでも単純な戯画であることを認識すべきである。もちろん、簡単なカリキュラムを作るために歴史の複雑さを避けてこのように語ると有益であるかもしれないけれども、ダーウィンの「敵」の批判や声を偏見のない耳で聞くことも価値がある。少なくともあの人たちのミスから学ぶことがあるはずだ。僕が属している物理学分野の中でアインシュタイン量子力学コペンハーゲン解釈を反対していたのが有名である。理由は彼が信じていた世界観、つまり哲学であった。そして彼のミス(実験で分かった)でさえ量子力学には大変な影響を及ぼした。

 

その時代にダーウィンに反対していた理由の例を一つ挙げてみる。それは生物学が倫理学の分野に侵入することである。この問題は未だにも続いている。社会ダーウィン主義あるいは生物学的決定論の最悪、最低の例としてはStephen Jay Gouldの名作「The Mismeasure of Man」で反論した「scientific racism」(科学的人種差別)は私たちも注意すべきである。

 

最近、河合雅雄の「愛情としつけ」を読んだ。作者の言いたいことを簡単に要約すると、私たちは猿さんから子供教育に関して色々を学ぶことができる。子育ての模範とも言える。なぜ猿が模範であるかなぜ学ぶことがあるかを自分に問いかけながら読み続いたら「仲間だから」という理屈しかないらしい。河合さんの科学的な研究は高く評価されている(違う分野だから個人的に何も言えない)がこんな簡単な非論理的なミスに驚いた。「である」(is)から「すべき」(ought)へ移るのはそう簡単ではない(これはヒュームのギロチンと言われている)。

 

驚いたというよりイライラしたと言った方がいい。誰かが分からない分野に入ってしまって間違うことは当然だけど、科学は近代に非常に大事にされている領域だからその科学を行う科学者は一般的に信頼されているようである。だから科学者にはこのミスはすぐ許される。Gouldが戦っていた科学的人種差別は「科学」に基づいているふりをしたからこそ害を加えられた。

 

子育てに励んでいる僕にとって猿さんたちから学べるのが疑わしい。気づいた人もいるかもしれないが、「父親」という言葉はこのエッセイに載っていない。猿の父親は子育てに参加しないからであるらしい。じゃ、子育ては全てお母さんに任せばいいでしょうか?これが誤っているとはいうまでもない。それに猿さんたちは何のために教育しているのも大事である。結局、適者生存の「道徳」の方へ行ってしまいそうである。

 

旭山動物園の近くに三浦綾子さんの文学館にも訪れた。何年もベッドから上がれられない綾子さんの伝記を少しでも知って感激した。こんな風に障害を乗り越えて、美しく生きる人物は滅多にいない。これはいかにも人間らしい生き方である(理想だが)。このような生き方は猿と他の動物から学べないのである。というより、ありえない。猿の「である」よりも、この方が「すべき」だと言えるだろう。